松果体の活性化については様々なアプローチがあります。
それらは、私達が受け取る情報や摂取する食品・栄養素の他、五感を使ったある種のエクソサイズ等々があります。
私は以前それに加えて、心構え・意識も重要な要素だと主張してきました。
参照:松果体の活性化(思考編)
今回はその中で視覚について気付いた点があったので書き留めておこうと思います。
私はこの種のエクソサイズについて今まで真面目に取組んだことありませんでした。
たまさかSNSに上がってきたので、先ほど試してみてた程度です。
その際、直感的に気付いたことがありました。
空間は遠方から目と鼻の先まで充満してますが、我々文明人の焦点はその中のスクリーン一枚に常に焦点を定めて世界を見てます。
ひょっとしたら、このようなエクソサイズは目の前の空間にレイヤーのごとく存在する無数のスクリーンを大観するある種の視覚を得ることにつながるのではないでしょうか。
このエクソサイズで新たに固定し得た視覚を画面からずらして日常の空間に移行し、それを習慣化できたら良いなと思います。
昔、ベンジャミン・クレーム氏の本を読んだことがありますが、そこに不思議な体験が書かれていました。
彼は幼い頃窓から外を眺めるのが好きだったそうです。風とともに様々な者や存在がなんともいえない雰囲気で漂っている姿を見るのが好きだったそうです。
視点を少しずらした状態にしてると見えていたそうなんですが、大人になるにしたがって見えなくなっていったそうです。
それらは、私達が受け取る情報や摂取する食品・栄養素の他、五感を使ったある種のエクソサイズ等々があります。
私は以前それに加えて、心構え・意識も重要な要素だと主張してきました。
参照:松果体の活性化(思考編)
今回はその中で視覚について気付いた点があったので書き留めておこうと思います。
私はこの種のエクソサイズについて今まで真面目に取組んだことありませんでした。
たまさかSNSに上がってきたので、先ほど試してみてた程度です。
その際、直感的に気付いたことがありました。
我々の視覚は映画やTVで固定されているのではないかと気付いたのです。しかも支配者が意図的に大衆にとって他に重要なものを見ないようにするために。いわゆる高次の存在や世界に触れないようにするために。
空間は遠方から目と鼻の先まで充満してますが、我々文明人の焦点はその中のスクリーン一枚に常に焦点を定めて世界を見てます。
ひょっとしたら、このようなエクソサイズは目の前の空間にレイヤーのごとく存在する無数のスクリーンを大観するある種の視覚を得ることにつながるのではないでしょうか。
このエクソサイズで新たに固定し得た視覚を画面からずらして日常の空間に移行し、それを習慣化できたら良いなと思います。
昔、ベンジャミン・クレーム氏の本を読んだことがありますが、そこに不思議な体験が書かれていました。
彼は幼い頃窓から外を眺めるのが好きだったそうです。風とともに様々な者や存在がなんともいえない雰囲気で漂っている姿を見るのが好きだったそうです。
視点を少しずらした状態にしてると見えていたそうなんですが、大人になるにしたがって見えなくなっていったそうです。
私が今回得た更なる気付きは、このような視点をずらした視覚を現在私達は意図的に行なっていますが、むしろこちらの方が正常ではないか、と言うことです。
テレビやPCのモニター・写真・写実絵画・映画などに慣れ親しんだ視覚で視点をある一点もしくはある一面の空間スクリーンに当てていると、その他の無数にある空間スクリーンに映し出されたものを見ることができなくなっているのではないかと思うのです。
テレビやPCのモニター・写真・写実絵画・映画などに慣れ親しんだ視覚で視点をある一点もしくはある一面の空間スクリーンに当てていると、その他の無数にある空間スクリーンに映し出されたものを見ることができなくなっているのではないかと思うのです。
これにはもちろん一世代だけではなく遺伝的な影響もあるし社会的な集合意識に囲まれれば洗脳・思い込みなどによって正常な視覚が異常に思えてきて自己制御で自ら見えなくしてしまうと思います。
そうして考えてみると、ここで紹介されている視覚によるアプローチは正常な視覚に戻るエクソサイズだと言えて来るのです。
そうして考えてみると、ここで紹介されている視覚によるアプローチは正常な視覚に戻るエクソサイズだと言えて来るのです。
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