これでわかるように、当時の宣教師たちの働きは極めて政治的であり、
彼らは、日本のキリシタン大名を背後から支配し、秀吉に対抗しうる勢力として力をつけていたのである。
しかし秀吉は馬鹿ではない。
バテレンたちが、極東を支配しようとするヨーロッパの国家的野望に則って活動していることを当然のごとく見抜く。
そして彼らが政治的脅威であると自覚していった。
それでも彼はキリスト教に寛容であった。
だが、九州を平定した後、秀吉は信じられない事実を発見する。
それは、キリシタン大名たちが、武器弾薬を求め、ポルトガルの奴隷商人の手引きをし、日本人を奴隷として売り飛ばす悪行に加担していた事実である。
1587年、秀吉は大坂城に、ガスパール・コエリョを呼び、
日本人奴隷の売買を中止し、海外のすべての日本人を帰国させることを命じている。
そして彼は、1587年6月18日「バテレン追放令」を発布した。
その条文の中に、ポルトガル商人による日本人奴隷の売買を厳しく禁じた規定があるのである。
つまりこれは、当時の日本がキリシタンに懐疑的になっていった理由が、キリスト教国の奴隷貿易と直接的に結びついていたことを雄弁に物語る歴史的証拠なのである。
1582年にローマに派遣された有名な「日本人少年使節団」一行も、
世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚愕している。
「我が旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、
こんな安い値で小家畜か駄獣かの様に(同胞の日本人を)手放す我が民族への
激しい念に燃え立たざるを得なかった」
ポルトガルやスペインなどと深く結びつき始めたキリシタン大名たちは、バテレンを通じての
キリスト教コネクションにより、それまでの日本人が考えもつかなかった「同胞を外国に売り飛ばす」ことに手を染めるようになっていた。
この、日本史上かつてなかった驚天動地の出来事を知るに至り、秀吉はその背後にいる宣教師追放令を出したのである。
キリシタン大名たちによる日本人奴隷売買の現実に、カトリック教会は「沈黙」してはならない。
●それでも寛容だった秀吉
それでも、国内のキリシタンが弾圧をうけたわけではない。
領民が自発的に信仰を持つことはなんら問題ないと規定された。
宣教師たちも国外退去させられたわけでなく、彼らは暗黙の了解で活動を続けていた。
これは大事な歴史的事実である。
日本人が、ただ無節操にキリシタンを弾圧した「残酷」で「野蛮」な人種であったわけではないのである。
しかし、その後に起こったスペイン船「サン=フェリペ号」事件をきっかけに、スペインが宣教師を使って植民地支配を広げているという情報が秀吉の耳に入る。
ここに至って、秀吉はキリシタン禁止の法律を実行に移していったのである。
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