2017年1月21日

遠藤周作の沈黙している映画

遠藤周作の沈黙という映画、キリシタンの弾圧、宣教師の苦悩を描いているらしい。日本人俳優が誇りに感じて出演しているが、この際よく考えるべき。
イエズス会といえば宣教師のイメージが強いが、それは教科書の中だけ。実態はバチカンに英国王室を控え独自の軍隊を持つ植民地化のための前線部隊。
スパイを送り込み権力構造の中枢に入り込み、一方で武器に奴隷貿易で儲け、段取りにかけては百戦錬磨の連中。
気付くころには根っこが崩れかけているが、これに気付いた秀吉がバテレン追放に打って出た。
あの秀吉の死は暗殺かもしれない。


細川 博司
2時間前

●秀吉によるバテレン追放令の背後にあった奴隷売買の実態
キリシタン宣教師の中でも、イエズス会日本準管区長ポルトガル人ガスパール・コエリョは、最も行動的であった。
コエリョはイエズス会の日本での活動の最高責任者にあたる。
彼は、1585年には宣教を優位に進め、キリシタン大名を支援する為、フィリピンからの艦隊派遣を求めたり、最も天下人に近かった「豊臣秀吉」に会い、九州平定を勧めたりした。
その際に、キリシタン大名を全員結束させて、秀吉に味方させようと約束したのだ。
つまり彼は、キリシタン勢力を利用して、日本国内に実質的なポルトガル領を作ろうとしたのである。
さらには、秀吉の「朝鮮出兵」を支援し、
日本の技術では作ることのできない大型軍艦2隻を提供すると申し出ている。
これでわかるように、当時の宣教師たちの働きは極めて政治的であり、
彼らは、日本のキリシタン大名を背後から支配し、秀吉に対抗しうる勢力として力をつけていたのである。
しかし秀吉は馬鹿ではない。
バテレンたちが、極東を支配しようとするヨーロッパの国家的野望に則って活動していることを当然のごとく見抜く。
そして彼らが政治的脅威であると自覚していった。
それでも彼はキリスト教に寛容であった。
だが、九州を平定した後、秀吉は信じられない事実を発見する。
それは、キリシタン大名たちが、武器弾薬を求め、ポルトガルの奴隷商人の手引きをし、日本人を奴隷として売り飛ばす悪行に加担していた事実である。
1587年、秀吉は大坂城に、ガスパール・コエリョを呼び、
日本人奴隷の売買を中止し、海外のすべての日本人を帰国させることを命じている。
そして彼は、1587年6月18日「バテレン追放令」を発布した。
その条文の中に、ポルトガル商人による日本人奴隷の売買を厳しく禁じた規定があるのである。
つまりこれは、当時の日本がキリシタンに懐疑的になっていった理由が、キリスト教国の奴隷貿易と直接的に結びついていたことを雄弁に物語る歴史的証拠なのである。
1582年にローマに派遣された有名な「日本人少年使節団」一行も、
世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚愕している。
「我が旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、
  こんな安い値で小家畜か駄獣かの様に(同胞の日本人を)手放す我が民族への
 激しい念に燃え立たざるを得なかった」
ポルトガルやスペインなどと深く結びつき始めたキリシタン大名たちは、バテレンを通じての
キリスト教コネクションにより、それまでの日本人が考えもつかなかった「同胞を外国に売り飛ばす」ことに手を染めるようになっていた。
この、日本史上かつてなかった驚天動地の出来事を知るに至り、秀吉はその背後にいる宣教師追放令を出したのである。
キリシタン大名たちによる日本人奴隷売買の現実に、カトリック教会は「沈黙」してはならない。

●それでも寛容だった秀吉
それでも、国内のキリシタンが弾圧をうけたわけではない。
領民が自発的に信仰を持つことはなんら問題ないと規定された。
宣教師たちも国外退去させられたわけでなく、彼らは暗黙の了解で活動を続けていた。
これは大事な歴史的事実である。
日本人が、ただ無節操にキリシタンを弾圧した「残酷」で「野蛮」な人種であったわけではないのである。
しかし、その後に起こったスペイン船「サン=フェリペ号」事件をきっかけに、スペインが宣教師を使って植民地支配を広げているという情報が秀吉の耳に入る。
ここに至って、秀吉はキリシタン禁止の法律を実行に移していったのである。

鎖国の背景と真相
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