2018年8月2日

松果体を活性化するための心構え

 松果体を活性化させる手段はいくつもあり、すでに試されたり生活に取り入れ実践されている方も多いことでしょう。
その主なものは目に見れる行為ですが、これからお話しすることは目に見えない思考による行為で、人類が最も苦手とする内容です。
 既に知られている活性化の方法を実践することで、以下私が語る『認識』が突然分かってくることもありますが、実践していなくても、その『認識』は松果体を活性化させる重要な鍵になります。
なぜなら、松果体の萎縮は生体上のDNA操作と言うよりは意識レベルにおけるDNAの劣化や操作によって起こされてきたことだからです。

 すでに知られている松果体活性化の方法によって、いずれはこの『認識』に到達することでしょう。しかし人類が長い間培ってきた意識や常識は、この『認識』に至る通路を強固に塞き止め続けてきた最大のブロックなので最も受け入れるには困難なのです。
それは人類を意識レベルで操作してきた存在が行なってきたことです。なぜなら自分達を崇拝するように仕向け、容易に従属するように仕向けなければならなかったからです。ここではその存在についての話は本筋からそれてしまうので割愛することにします。

崇拝とは奴隷が作りだす意識
 私達人類が陥りがちな最も危険な誘惑であり罠は、『崇拝する』という意識状態です。
対象が何であれ崇拝意識には、自分をさげすんでしまう劣等意識が生み出したものです。逆の見方をすれば、劣等意識には、他者や集団そして他の生命体に対して優越意識を抱く意識が潜んでいます。

 この優越意識が蔑みの感情を抱かせ、いじめや虐待をもたらすのです。
 崇拝とは、自分を蔑み、自分を能力や価値の低い者と見なし、自分以外の存在に意志を委ねることでもあります。それは神のような存在だけでなく、集団や社会であったりもします。それが持続すると依存が生じ、依存が募ると心も支配される状態に陥ってしまうのです。

 そこが支配者の思惑で、他人を支配したい・コントロールしたいと望む存在は、カリスマ性を強調したり自分が他者よりなんらか秀でた存在であることを強調・強制したり、集団であったりする場合は、個人がいかに無力で弱い存在であり不安定な存在であることを強調して脅しにかかってくるものです。

これが宗教のネガティブな側面でもあり現代社会でも同様のマインドコントロールを支配者である国や政府が展開する由縁です。

 そんな社会のなかで、自慢話をする者は崇拝の対象を引き寄せ、上の指示や命令に容易に従ってしまいます。
あからさまに自慢せずとも、社会的に『お墨付き』や『ランク付け』なども崇拝・従属意識を作りだすアイテムです。
これは支配する側からすれば奴隷意識というもので、そこから崇拝意識の別の言い方が奴隷意識になることだと分かってくるでしょう。

実は、私達一人ひとりが神なのです
 私は一昨年以来、自分自身が『神』であり、誰もが『神』なのだということに気付きました。
それ以来事あるごとにこの課題について語ってきました。
それは今までほとんど誰もが言ってきたことではありません。今まで言われてきたことはせいぜい「内なる神を認める」とか「内なる神を信じる」程度です。せいぜい宗教で言う神を乗り越えてきたようなニュアンスです。

 それは神でなくてもいいのです。むしろ重要なのは自分より『上』の存在を認めて気付かないうちに「依存」するか、崇めてしまうか、尊敬を通り過ぎて盲目的に従順するかと言ったレベルの問題なのです。
この『上』意識は、それとは反対の『下』意識を同時にセットで作ってしまいます。『下』の物に対しては自分が『上』なので、『下』に対して従順・敬意・服従を必要以上に要求・期待します。

 この意識レベルは学校でも、家庭でも、社会のあらゆる層の中にフラクタル的に浸透しています。
それは、上下の格差と比較からなるピラミッド型の、別の言い方をすれば見えにくいヒエラルキー、すなわち階層と階級からなり、指令系統が末端まで行き渡るようになっている統制の取れた社会システムなのです。

 このシステムからは様々な人生のもがきが生じます。劣等意識と優越意識が明確に意識の中に植えつけられ、「見下し」の反対に「盲目的敬意と崇拝」がおこり、そこに洗脳が加えられ『上』による『下』のコントロールや支配が行なわれ、容易に下々・大衆は一つの方向へと集団的行動を取らされて、場合によってはたいてい戦争と言う形で集団的自決や集団的暴力にトチ狂わされてきました。

 この社会システムに数千年来浸かってきた人類にとって自分の内に神を見出す以上に自分が神であったことを認めることは言葉以上に困難な意識改革なのです。
従来の神とは、人が作り出した期待と願望を背負った偶像なのです。そのことを認識し、最終的に人は創造主であり、どんな者にも劣等意識や優越意識を抱くことの無い中庸な意識を保つ者であり、そういった意味合いでの神であることに気付くまでが、この時代に生まれてきた人類に共通する理由なのです。


 松果体を活性化するとどうなるのか?活性化しないとどうなるのか?また松果体を活性化する方法など、これらはすでにネットなどで詳しく出ております。

 ここで更なる進展を望むならば、活性化すなわち神意識に到達する前から必要な認識です。
そうなる前から人は事前に、『我々一人ひとりが神なのだ』と言う認識が道しるべになりえるのです。




松果体を活性化するとどうなるか?活性化していないとどうなるか?





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