2016年1月3日

私は占いの類にほとんど興味ないが、ふと目に留まったこのサイトによると、どうやら私の手相は最高の手相で、その幸運度がスゴすぎるようだ。

【あなたの手相はどうですか?】
http://netallica.yahoo.co.jp/news/20151224-82556377-wmcurazy
私の手の平には、よく見ると実に美しい幾何学ラインが刻まれている。
幾何学生活苦節30年の証なのかもしれない・・・

手相師のジョン・セイント・ジャーマン氏によると、
「手のひらのM字は、幸運のサインだと信じられている。M字の持ち主は・・・以下省略」

確かにMが末広がりでくっきりと見える。



だが、さらによく見ると他のアルファベットも見えてくる。XとAが。
MAXなのか?それとも、もうこういう人は幸福を超えた境地なのかもしれない。
そうなのだ。私にとって幸福とは、世界すべてが幸福にならない限り個人の幸せはありえ無いと言うのが本当のところだ。

この境地からすると、個人的なあるいは一部の社会層や民族の幸せはエゴの産物で、数千年かけて支配者層が作り出した幻影と幻想と幻覚のなかで満足する夢を見せ続けさせられており、それに向かってまるで人参を目の前にぶら下げられて走る馬車馬のごとく走らされているに過ぎない。
そのため、人は幸福論や占い・成功哲学に寄り添い、それらはすべて全体から切り離された小さなきわめて個人的で一時的な満足感という檻におさまっている。
そこには、すべての人の幸福や成功は含まれていない。

皆気付くべきだ、幸せ祈願やラッキー(ついてる)などなどそういった観点からすれば、支配者層が作り出した競争原理という檻の中でのエサに過ぎないことに。
だから私は初詣や神社崇拝・祈願など今年限りで全て断舎利し
た。
それらはもともと悪魔崇拝を起源としているが、数千年のこの文明の中であまりにも日常化しすぎて人類が麻痺してしまっているのだ。

この幸福というエサである檻に入れたがっている悪魔的な存在がいることにも気づくべきだ。
我々文明の根暗い一側面を寺山修司がこう詩ている。
「生命線 ひそかに変えむため  わが抽出しにある 一本の釘」

すでに人類は神的な存在まで進化しているので、もし願うならば己自身に向かって願い、意識を他者にゆだねるなかれ。自分自身が自分の望んでいることを確実にできるのだと・起こすことがありえるのだと信じてあげることだ。
この自身があれば、手を合わせてお願いすることなど必要ない。
そもそもその行為自体が悪魔崇拝の始まりで、人がその他力意識を埋め込まれる前に行っていたことは胸に手を合わせる行為なのだ。
だから本来の祈りや願いは己に受かって胸に手を当てるところから始まる。


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